(敬称略)

空手家・白羽秀樹(しらは ひでき)

沢村忠(さわむらただし )・本名 白羽秀樹(しらは ひでき)は、1943年(昭和18年)1月5日生まれで、物心ついた時から「唐手(とうで)」に夢中になり、懸命に練習に取り組んできた。唐手とは、文字通り中国・唐の時代に護身用の武術として広まったもので、空手の源流となる武術である。

祖父が唐手の正師範代で、秀樹は5歳ごろから祖父直々の指導を受け始め、以来15年に及びマンツーマンの指導を受けることになる。

成長し、日本大学に入学すると剛柔流を旨とする空手部に入部し、三段まで取得する。公式戦では60回以上戦って負けは無し。当時の学生空手界では「白羽秀樹」という名は有名なものとなっていた。

だが、ある日を境に人生が一変する。ボクシングのプロモーターをしている 「野口修」 との出会いがそれである。

ボクシングの試合で「日本人対外国人」の試合が始まる

ボクサーからレフェリー、そしてプロモーターへと転身を遂げた野口修は、日本にキックボクシングという新しいスポーツを確立し、沢村忠というスーパースターを世に送りだした人物でもある。

当時(昭和30年代)は、ボクシングが人気を集め始めた頃で、フジテレビ、日本テレビ、TBSなど、民放各局はボクシングをレギュラー番組として放送していた。しかし、そのマッチメイクは全て日本人同士の対戦であり、「このままではいずれファンにも飽きられてしまう。」と感じた野口はNET(現テレビ朝日)に、日本人対外国人の試合を提案した。だが、これはあっさりと却下されてしまう。外国から選手を呼んでギャラを出していては、制作費が足りないというのだ。

一番組の制作費はだいたい40万円前後がこの当時の相場だった。
「分かりました。では私は25万で引き受けましょう。」
そんな金額で出来るわけがないと誰もが思ったが、いったん口に出した以上、野口は引けない立場となり、野口は懸命に頭をひねった。

場所も、これまで使っていた後楽園の卓球センターが会場使用料5万円であったが、1万円で借りられる浅草公会堂を発見し、こちらへ舞台を移すことにした。

そして野口の予測通り、浅草公会堂で行われた国際試合は、毎回のように超満員で、大変な盛況であった。そのうち他の局からも「選手を貸して欲しい」と打診があるようになり、選手を貸し出しながらも、自分は東南アジアを中心とした海外へ選手の発掘に出かけるようになった。何カ国かまわってみたが、中でも太いラインが確立出来たのはタイである。

タイ式ボクシングの試合を日本で実現

タイにはムエタイ(タイ式ボクシング)と呼ばれる格闘技がある。殴る・蹴るという要素を含んだこの格闘技に興味をそそられた野口は、さっそくボクシングの前座のエキビジョンマッチとして、タイ式ボクシングの試合を浅草公会堂で実現させてみた。

従来の「殴る」だけのボクシングに「蹴る」という要素が加わった格闘技が観客の目にどう映るだろうか。不安はあったが観客の反応は悪くはなかった。

その三年後にもタイ式ボクシングの試合を行ってみたが、こちらも観客は楽しんで見てくれたようで、両方とも悪い感じはしなかった。

極真空手対タイ式ボクシング

手応えをつかんだ野口は、今度は日本人とムエタイの試合を実現させてみたくなった。相手として、試合がかみ合うのはやはり空手であろうか。野口はさっそく極真空手の大山倍達を訪ね、相談を持ちかけてみた。 大山はあまり乗り気でない様子だったが、そこを熱意で押し、3人の選手を借り受けることが出来た。

大山の指名した選手は 黒崎健時、中村忠、藤平(後に大沢)昭雄の3人。野口と三人の選手は1964年(昭和39年)、タイに渡った。ムエタイにはルンピニー(陸軍系)とラジャダムナン(王室系)の二大スタジアムがあり、彼らはバンコクで、ルンピニーの大物である陸軍大佐の家に一ヶ月滞在してトレーニングを積み、試合に臨んだ。

タイの国技ムエタイに日本人の空手家が挑むということで、現地では相当殺伐(さつばつ)としたムードで、街中には「空手の奴らなど墓場送りにしてやる」などと書かれたポスターがあふれていたという。

2月12日、1万5000人の観客をルンピニースタジアムに集め、空手対ムエタイの試合は始まった。三人とも極真の代表らしく壮絶な覚悟で戦い、中村忠は強烈なパンチでKO勝ちを収め、藤平もKO勝ち、黒崎はヒジ打ちを食らって顔面を切って敗れてしまったが、内容は先の二人に劣るものではなかったという。試合後は三人の強さを認め、観客から賞賛の拍手が沸き、翌日の新聞にも大きくとり上げられた。

帰国してから後、野口はこの格闘技を日本はもとより、いずれは世界中に広めたいとの構想を持った。だがムエタイ従来のルールや、名前も「ムエタイ」「タイ式ボクシング」ではちょっとアピール度が弱い。世界に羽ばたく格闘技の名前として何かいいものはないだろうか。

あれこれ考えたが、既に国際的に浸透している「ボクシング」という名称はどうしても使いたい。蹴りのあるボクシング・・「キックボクシング」という名前はどうだろう。これなら世界中に通用するし何よりも分かりやすい。「日本キックボクシング協会」を設立して、今後この競技を日本に世界に広めて行こう、そう思っていた。

キックボクシングの誕生

だが、この名称はボクシング界から猛反発を食らった。そのような訳のわからない競技にボクシングの名前を使うのはボクシングに対する冒涜(ぼうとく)だというのだ。

理事会で散々責められることとなった。当時野口は日本ボクシング協会の常任理事を務めており、何よりもこれまでにボクシング界に多大な貢献をしてきたという自信があった。野口も黙っていない。

「キックのあるボクシングだからキックボクシングなんだ。この名前なら海外でも通用する。この名称だけは妥協するわけにはいかない!」と反発する。そのうち、どうしても、そのような競技を作るのなら、ボクシング界から除名する、という意見まで出始めた。これに対して野口も頭に来て、

「何が除名だ。戦中戦後のボクシング界の創設には私の父親が多大な貢献をしている。戦後は私が海外に目を向け選手を発掘し、国際試合も実現した。東洋タイトルマッチも行われるようになり、選手も世界に挑戦出来るようになったんだ。ではそのパイプ役を努めたのは誰なんだ。俺以外に誰がいるというんだ。俺以上に貢献してきた人間がこの中に一人でもいるというのか!」

実際、野口の言う通りであり、会場はシーンとなる。理事会では野口の言い分を認めることとなった。野口は常任理事の座を、元日本フライ級チャンピオンであり、自分の弟でもある恭に譲り、自分はボクシング界から引退状態とし、1966年(昭和41年)1月30日、安藤嘉章を会長に立てて「日本キックボクシング協会」を設立する。

野口修が白羽秀樹に会う

野口は日本キックボクシング協会の旗揚げ興行として、タイから選手を招き「空手対キックボクシング」と銘打った興行を企画していた。だが、肝心の日本側の選手がなかなか決まらない。全国をまわって話を持ちかけてみたが、「相手の選手にケガを負わせるといけないので。」などと大口を叩くか、弱気になって断るかのどちらかである。

そんな時、ある知人の紹介で空手の学生チャンピオンである白羽秀樹を紹介された。この白羽秀樹こそ、後の沢村忠となる人物である。野口はさっそく白羽と会うことにし、東京の飯田橋の喫茶店で待ち合わせをした。

やってきた白羽が礼儀正しく挨拶し、席につくと野口は一気にしゃべり始めた。最初はおとなしく話を聞いていた白羽だったが、野口の話を聞くうちにだんだんと腹が立ってきた。

「君は空手が一番強いと思っているようだか、それは全くの認識不足なんだよ。しょせん空手は寸止めで、実践的ではない。いくらシャドウボクシングがうまくてもそれで果たして実戦で勝てるかな?ムエタイは、近づけばヒジやヒザが、離れれば回し蹴りが飛んでくる。これと戦えば空手なんてひとたまりもないさ。」

白羽の実力よりも空手そのものを否定するようなことを喋る。

「どうだい?戦ってみる気はあるかい?」

これまで打ちこんできた空手を批判されて、頭にきた白羽はもちろんOKした。「いいですよ、やりましょう。俺の同僚を戦わせてみますよ。」

この時、白羽の名前は既に学生空手界では有名なものになっていた。もし自分が出ていって万が一のことがあれば、空手界全体に迷惑をかけることになる。「同僚を」と言ったのはそういう配慮からだった。

結局交渉は野口の一方的なペースで終わった。気がつけば対戦を承諾しており、完全に乗せられた、という感じだった。

日は流れ、試合前日、白羽は同僚の選手たちを連れてタイの選手の公開練習を見に行った。だが、そこで全員に戦慄が走る。サンドバッグを蹴る音や重量感が、これまで見たことのないほどの破壊力だったのだ。「あんなのとやったら殺されるんじゃないか・・。」出場予定選手の中で不安が立ちこめた。

キックボクシング旗揚げ興行で、空手家・白羽、タイ式ボクシングと戦う

そして試合当日、事件が起こる。出場予定のない、白羽のみを残して、他の選手が全員いなくなってしまったのだ。部屋は既にもぬけのカラで、夜中のうちに逃げ出してしまったものと思われる。

野口も白羽も動揺が走る。

「どうするんだ、試合は今日、しかも切符も売れているんだ。」
「こうなったものは仕方がありません。俺が責任を取って戦います。ですが、本名で出るのは困ります。リングネームでお願いします。」

結局白羽のみが出場することとなった。ムエタイに関しては依然未知の部分が多いが、いったんやると口に出した以上、後には引けない。相手はタイの、元フェザー級チャンピオン、ラクレー・シーハヌマンである。

試合前、白羽には「沢村忠」というリングネームが用意された。この名前もこの一試合限りであって、まさか今後自分が沢村忠を名乗り続けることになるとは、この時点では考えもしなかった。

昭和41年4月11日、大阪の難波、府立体育館で、約5000人の観客を集めてキックボクシングの旗揚げ興行は開始された。沢村は空手着にグローブをつけて、初めてのリングにあがった。

白羽もこの試合内容のことは緊張もあってか、ほとんど覚えていないという。気がつけば、観客からものすごい声援で、その時点で初めて自分が勝ったことに気づいたという。3ラウンド・0分50秒、沢村の蹴りがラクレーのノド元に突き刺さってのKO勝ちだった。

二戦目で惨敗

「やはり思った通り、空手はムエタイより強い。」沢村がそう思っていたところへ野口は二戦目の話を持ってきた。前回一試合限りだと思っていた沢村は困惑したが、またしてもペースに引き込まれる。

「まさかあれで勝ったと思っているんじゃないだろうね。タイにはあれより強いのがゴロゴロいるんだ。まあ、やりたくないというならそれでもいいんだが・・。君なら勝てると思うんだが、どうかな?」

「いや、いいですよ。やりましょう。」


次の試合で最後、という約束で沢村は再び承諾した。次の相手はルンピニーの現・フェザー級8位のサマン・ソー・アジソンである。
場所は東京・渋谷のリキ・パレスに決まった。「空手が勝つか、キックが勝つか」と、前宣伝も十分で観客は超満員。昭和41年6月21日、ゴングは鳴った。

だが、前回の相手とはまるで違う。1ラウンドから押され気味で、更に2ラウンドが始まる前にセコンドが頭からかけた水が空手着に染み込み、動きを重くしてしまう。

3ラウンドからアジソンはスパートをかけてきた。圧倒的手数のキックやパンチが、沢村に容赦なく襲いかかる。右のハイキックでダウンを奪われた後はほぼサンドバッグ状態となった。見ていて残虐とも思えるようなシーンの連続である。だが、沢村は倒されても倒されても立ちあがっていく。4ラウンドに入っても一方的で、観客からも「もう、やめさせろ!」の声があがった。

ついに4ラウンド、右フックでダウンしたところでレフェリーが試合を止めた。KOタイムは2分53秒。ダウンは合計16回にも及ぶ。沢村は担架に乗せられて退場し、試合の記憶は途中から無い。病院直行となり、そのまま入院した。

奥歯が5本抜けており、打撲と診察されてものが37箇所、出血13箇所、更にヒジ打ちを食った後頭部は陥没していた。高熱が一週間続き、頭には継続的に激痛が走る。半殺し状態である。

「おそらく再起は無理だろう」野口は沢村という貴重な人材を失ったこと、身体は日常生活に支障がないほどに回復するのだろうか、そして戦わせたことに対する自責の念に駆られ、いたたまれない気持ちとなった。せめて戦いをねぎらってやろうと病室を訪れた時、沢村から驚くような言葉を聞いた。

「社長、もう一回やらせて下さい。」

あれだけやられてもまだ戦う意志がある。このままで終わってたまるか、という強靭(きょうじん)な精神力が今後の沢村忠を生み出すことになる。

キックボクシングに転向

約一ヵ月後、沢村は退院し、より強くなりたいと願って八ヶ岳で山籠(やまごも)りに入った。今後目指すキックの練習はもちろんのこと、メインは精神の鍛錬であった。人のいない山奥で毎晩夜を明かし、孤独と恐怖に耐えることで精神が成長すると考えたのである。

人恋しさに山を降りて行かないように片方の眉毛(まゆげ)だけを剃(そ)り落とし、あえて珍妙な顔になって毎日練習に励んだ。約二週間の山籠(やまごも)りを終えた後、沢村は野口邸で合宿生活に入った。

キックボクシングを世間に広めるためには、選手の育成はもちろんのこと、テレビで放映してもらうことが不可欠である、そう考えた野口は沢村を連れてはしょっちゅうTBSへ出かけ、営業活動を行うようになった。キックボクシングの説明をし、沢村対サマン戦のビデオを放送して欲しいとアピールしたのだ。

最初は相手にされなかったが、一年半もの活動の結果、ついに森副部長が興味を示し、自分が手がけていた番組「サンデースポーツ」の中で沢村対サマン戦を紹介した。ここに初めてキックボクシングが公共の電波で紹介されることとなった。

練習期間とトレーニング

空手家からキックボクサーとなるべく、沢村は本格的にトレーニングを開始した。全身を武器とするべく、沢村は自ら様々なトレーニング方法を考え出していった。

腹に対する衝撃に耐えるために、重さ15kgくらいの鉛の玉を何度も腹で受け止める。更にその腹を後輩にバットで殴らせる。最初は遠慮して叩いていた後輩たちも、沢村が「もっと強く」と望むので、最終的には30回くらい連打するが日課となった。

更に車のタイヤを天井からぶら下げ、それを反動をつけて、腹で受け止めるトレーニングも行った。どれくらい腹筋が強くなったのかと、試しに空手の心得のある記者が沢村の腹にパンチを入れたところ、逆に記者の指が骨折してしまったという話もある。

また、足のスネを強化するために、最初はスリコギを使ってスネを叩き始めた。叩くたびにスネは腫れ上がっていったが、それでも我慢して叩いていると、だんだんと痛みもなくなり腫れもしなくなった。スリコギでは役不足になった時、今度は牛乳ビンを使うようになり、半年もすると、ビール瓶をスネで叩き割れるようになった。そしてビール瓶を克服すると、今度はコーラのビンを使うようになった。

やがて沢村は、次の段階として90日間のビザを取得して一人でタイへ向かった。知人の紹介で、タイの富豪の家に住みこみで住まわせてもらって、使用人として働きながら、本場タイの技を学びに行ったのである。

このタイの滞在中に沢村は、垂直に飛び上がって相手の顔面にヒザ蹴りを入れられないだろうか・・いわゆる後の真空飛びヒザ蹴りを考えつく。サンドバッグに向かって黙々とジャンプを繰り返す沢村は、タイ人たちにとってはとても珍妙な光景に見られた。

キックボクサーとしてデビュー

帰国し、キックボクサーとしてリングに上がるようになった沢村は、一気に9連勝を飾った。しかも相手の9人のうち8人までが、強烈な蹴りをくらって肉離れを起こしていたのである。

1967年(昭和42年)、2月16日新宿体育館で沢村の東洋王座決定戦が行われることが決定した。この試合がついに、「サンデースポーツ」の中で放送されることが決定した。ただ、試合から10日後に放送される録画放送ではあるが、前回のわずかな扱いの放送に比べれば格段の進歩である。

タイ国ミドル級チャンピオン、モンコントン・スイートクン対東洋ミドル級沢村忠。当日新宿体育館は超満員となった。結果は3ラウンド、沢村のKO勝ち。沢村はサマンに敗れた後10連勝を飾り、東洋タイトルを獲得することとなった。

そしてそれから四ヵ月後の6月18日、沢村は東洋ミドル級チャンピオンとして、バイヨク・ボーコーソーの挑戦を浅草公会堂で受けることとなった。この試合もTBSのサンデースポーツで放送されることとなった。

しかし、いくらテレビに出るようになったとはいえ、まだ新種のスポーツである。経営は苦しかった。沢村も会社勤めをしながらジムに通う。まだまだキックで生活が出来るには遠く及ばなかった。会場設営やビラ配り、ポスターを貼ったり切符を売ったり・・これらは全て沢村を含めた選手とスタッフが全員で行っていた。

真空飛びヒザ蹴り

沢村も試合に向けて気合が入る。自ら考えついた飛びヒザ蹴りを、意識して繰り出すのではなく、無意識に出るように身体に覚えこませるように反復練習を徹底して行った。対戦相手であるバイヨク・ボーコーソーは、以前沢村が16回もダウンを取られて負けた相手サマン・ソー・アジソンを、母国タイで約一年前にやぶっている強豪である。沢村にとっては最強の相手となる。

だが沢村も以前の沢村とは違う。劇的な飛びヒザ蹴りでボーコーソーをKOし、見事タイトルを守りぬいた。真空飛びヒザ蹴りが沢村の必殺技となった瞬間の試合であった。そして三度目のテレビ中継では、視聴率22%を獲得。キック人気は急上昇していった。

だが、名前が売れると、今度はジムに道場破りが現れるようになった。ボクサー、合気道、空手家、喧嘩屋・・20人以上の道場破りが来たが、沢村相手に一分もった男はいなかった。

タイへ渡り、チャンピオンと対戦

沢村が21連勝で11度目の東洋タイトルの防衛に成功した時、野口の耳にちらほらと、沢村のことを悪く言う記者たちの話が伝わってくるようになった。

「あんなにタイの選手が簡単に負けるわけがないじゃないか。相手が手を抜いているのかも知れないけど、タイでやったらああはいかないさ。」

「二流三流の選手を、日本では一流だと紹介するのも可能なんだしな。」
いかにも八百長だと言わんばかりの言い方である。社長である野口は頭に来た。全力で戦っている選手を八百長よばわりするのであれば、実力を証明するために、こちらからタイへ乗りこみ、敵地でチャンピオンと戦うしかない。一気に決断した野口は、1968年(昭和43年)8月21日、沢村を含めた数人の選手たちを連れてタイへ渡った。

バンコクの空港に降り立ち、沢村が歩き出すと、一斉にフラッシュがたかれた。「相当な有名人と一緒に乗り合わせたんだな。」と思ったが、記者たちが自分を取り囲んだのを見て唖然としてしまった。こちらタイでは、母国の英雄が異国の挑戦者を受けるということで、大変な騒ぎになっていたのである。

沢村のことを「本物ではない」と批判する日本の記者たちを見返すためにタイに来たのだ、野口はチャンピオン以外の対戦相手はガンとして拒否し、対戦相手は最終的に、ライト級チャンピオンであるポンチャイ・チャイスリアと決まった。

9月13日、ルンピニースタジアムで1万5000人の観客を集めて試合は行われた。試合は残念ながら、勝つことは出来なかったが、5ラウンドをフルに戦っての引き分けだった。

勝てはしなかったものの、キックのキャリアがわずか二年ほどの男が敵地でチャンピオンと戦い、引き分けたということは大変な快挙であり、このニュースは外伝で世界に流れ、日本のスポーツ新聞でも大きく取り扱われた。

テレビのレギュラー番組になる

タイから帰国した沢村の次の相手は舞台を日大講堂に移して、アメリカ・ミドル級のチャンピオンであるジミー・ゲッツである。この試合を第一回目の放送として、ついにTBSのレギュラー放送も始まった。

これまでのように「サンデースポーツ」のコーナーの一つとして単発で放送されるのではなく、「キックボクシング中継」としての番組を持てたのである。 だが、記念すべきレギュラー化一回目としては、あっけなく終わってしまった。2ラウンド2分05秒KO勝ち。最終的に試合を決めたのは右回し蹴り。ゲッツは腕でブロックしたが、そのまま顔を歪めてマットに崩れ落ちた。ゲッツの左腕は骨折していた。 今後キックを日本に広めていくために、もっといろんなものを見てもらいたかった沢村であったが、ゲッツの途中からの戦意喪失により、全くの消化不良の試合となってしまった。

沢村人気爆発

全国ネットで放送されるようになってから沢村人気は爆発した。TBSのレギュラー放送が始まった1968年(昭和43年)の秋頃から、沢村は地方の試合が増え始めた。また、翌年には年間で48試合が予定されていた。

映画やドラマ、クイズ番組などの出演が相次ぎ、まさに芸能人なみの分刻みの生活となった。沢村はファンを大切にし、サインを求められると、時間の許す限り一人一人にサインした。また、地方興行に出た場合、宿舎に帰ってくると、頼まれた色紙が1m近くも積み上げられていることもあったが、沢村は代筆を使わず、全て自分でサインをした。

1968年(昭和43)年、プロ野球では巨人がV4を達成し、長嶋、王が人気を集め、また、大相撲では大鵬、サッカーの釜本など、スポーツ界では軒並みスーパースターが活躍していたが、ある少年雑誌の人気投票では、これらのスターを抑え、沢村が一位となった。

また、スポーツ選手だけでなく、芸能人やあらゆるジャンルの有名人を含めた別の雑誌の、人気投票でも沢村は一位を獲得した。また、日本プロスポーツ大賞でも沢村は殊勲賞を受賞した。

意外な相手に連勝を止められる

沢村は、とにかく試合数が多かった。特にキックがレギュラー番組となってからは、ほぼ毎週一回試合が組まれ、対戦相手も大量に必要だった。ランキング入りしている選手やチャンピオンと戦えば、それなりに視聴率もアップし、観客動員数も増えるだろうが、そのような選手は全体のごく一部にすぎない。必然的にランキング外の選手や格下の選手も引っ張ってこなければ対戦相手が足りない。

野口の考え方として、
「沢村があれだけ連戦をこなせたのは、マッチメイクの巧みさによるものだ。相手の中には、全力で戦わなければ勝てない相手もいれば、スパーリング程度の感覚で倒せる相手もいる。対戦相手に強弱をつけて、それらをうまく組み合わせていくのがプロモーターの腕だ。」と語ったこともある。

1月7日、横浜文化体育館で対戦した、カンワンプライ・ソンボーンは、その中でも沢村にとっては「弱」の部類に入る選手だった。実際、前年11月に対戦した時には、真空飛びヒザ蹴りのKOで勝っている。

だが、この日の沢村は何か違った。右ヒジを痛め、ヒザとスネは打撲。年末からの連戦と過密なスケジュールで疲れが抜けていない。身体が重い。野口の考えでいくと、タイトルマッチから中二日をあけて強敵と試合を組むはずもないのだが、沢村はパンチにもキックにもいつものスピードがない。逆に相手に何度もカウンターを喰らう。結果は5ラウンド戦って判定負け。

「馬鹿野郎!やめちまえ!」などと罵声(ばせい)が飛ぶ。丸めたパンフレットで叩かれたり、スリッパで叩かれたり。こんなにボロクソに言われて退場するのも初めての経験である。負けた原因は自分なりにはっきりしている。休みもない、練習する時間もない。明らかに過密スケジュールが原因だったのだ。連勝は31でストップした。

復活、そして再び連勝街道へ

この後沢村は、二週間ほど休みをもらい、精密検査を受け、トレーニングにも集中することが出来た。そして復帰戦は名古屋の金山体育館。対戦相手のタノン・ペキンチャイをフライングドロップ回し蹴りでKOし、勝利を飾った。久々の試合で勝利した沢村は宣言した。「もう、負けませんよ。」

実際、沢村はそれから連戦連勝でKO勝ちを積み重ねて行く。カンワンプライに止められた31連勝には、約半年で追いついた。

また、キックの試合は必ず録画放送で行われた。流血などの凄惨なシーンをあらかじめカットして編集してから放送したいとのテレビ局の意向によるものだ。昔は流血シーンなどは、残酷なものとして視聴者やテレビ関係者に非難される風潮があった。

しかし、いつも放送時間内に沢村が勝つものだから(録画だから当たり前なのだが)、それを生中継と思って見ている人たちは「よく出来たショーだ」と思っていたようである。実際、地方に行くと「今日は沢村さんが何分ころに出てきたから、何ラウンドで勝つな、とだいたい分かるんですよね。よく出来ていますね。」などと言われたこともある。

沢村はこのような八百長呼ばわりされることを最も嫌った。「冗談じゃない。怪我を隠し、相手が誰であれ、試合前は緊張していつも真剣勝負をしているのに!」勝ち続けることが逆に自分が疑われることになるとは、これほど悲しく腹立たしいことはなかった。

連続KOが途切れる

やがてキックは7階級制へと変わった。これまでは3階級だったが、体重制限を増やして7階級とし、7人の日本チャンピオンが決定した。東洋タイトルもそれに合わせたために、沢村は13度も防衛した東洋ミドル級から、東洋ライト級のチャンピオンへと移動となった。

1970年(昭和45年)10月02日からテレビで沢村を主人公としたアニメ「キックの鬼」が放送を開始した。全26話で、この番組によって、沢村人気はますます子供たちの間にも浸透していった。

敗戦から復帰した沢村は、勝率100%、KO率100%の快進撃を続けた。1971年(昭和46年)1月3日、後楽園ホールで行われた東洋タイトルマッチでは、対戦相手のリティサック・ソーホーヨーに4ラウンドまでに7回ものダウンを奪われながらも、5ラウンドに前蹴りをリティサックの喉(のど)に突き刺し、逆転KO勝ちを飾った。この時点で東洋タイトルも、ライト級では6度目、ミドル級からの通算では19度目の防衛に成功し、 116連勝(116KO)となった。

この後一試合KO勝ちをおさめたが、次の後楽園ホールで行われたパナナン・ルークパンチャマ戦でついに連続KO記録途絶えてしまう。パナナンは沢村より10kg以上も重い選手で、試合は判定勝ちとなり、連勝記録は残ったものの、連続KOは117でストップした。

収入

当時の沢村のファイトマネーは、一試合50万円だったという。総理大臣の給料が90万くらいで初任給が3万円を超える職業がそうそうはない時代にそれだけの収入があった。また、いつもつかんで帰る激励賞が、多い時には50本を超え、一本の中身は数万円。それに加えてレコードの印税や映画やテレビの出演料などが加わった。

だが、これだけ収入があっても沢村にはほとんど貯金がなかった。唯一好きだった車には新車で2~3台買ってつぎ込んだものの(後援者からプレゼントされた外車を含めて当時7台所有していた)、後はお中元やお歳暮、若い者たちへの面倒見の資金や、金に困った後輩たちへの援助、自分の誕生パーティを企画して出席者に大量のプレゼントを贈ったりなど、大量に入ってきた金も大量に使い、祖父の影響からか、武人が金に執着するのは醜い、という考えを持っていたようである。

パナナンとの再戦・連勝記録ストップ

1972年(昭和47年)4月29日、沢村は後楽園ホールでパナナン・ルークパンチャマと再戦した。この日詰めかけたファンは衝撃の光景を目撃することになる。沢村よりも身長で3cm、体重で10kg上回るパナナンは強敵で、何より前回連続KO記録を止められている。

4ラウンド0分56秒、沢村がジャンプした瞬間に、パナナンの右ストレートをアゴに受け、そのまま背中から落ちて高頭部を激しく打った。沢村はタンカに乗せられて退場し、それから30分、意識不明の状態であった。

KOで負けてタンカで退場するのは、キック入りするきっかけとなった、サマン・ソー・アジソン戦以来のことである。引き分けをはさんだ沢村の連勝記録は134で止まった。カンワンプライに判定負けを喫してから続いた無敗の期間は3年3ヶ月以上であった。

日本プロスポーツ大賞

このパナナンとは、7月8日に三たび対戦することとなる。最初の試合は判定勝ちにはなったものの、連続KO記録を止められ、二戦目は壮絶なKO負け、これまで一勝一敗で来ている。次で決着をつけなければならない。「同じ相手に続けて負けるわけにはいかない」そう言い聞かせて沢村はリングに向かった。

2ラウンド、パナナンが右回し蹴りを放った瞬間、沢村は右フックをパナナンの顔面に叩きつけた。パナナンはこの一撃でマットに沈み、そのまま10カウントが入り、三度目の対決は沢村のKO勝ちで幕を閉じた。

1973年(昭和48年)、沢村は日本プロスポーツ大賞、内閣総理大臣賞を受賞した。この年野球界では巨人がV9を達成し、王貞治が三冠王となったが、その実績をしのいで沢村がプロスポーツ大賞を受賞したのである。

ピークを過ぎて

その後も沢村は勝ち星を積み重ねて行く。だが、年齢を重ねるに連れて、真空飛びヒザ蹴りでKOする試合は少なくなった。元々、驚異的なジャンプ力とわずかなタイミング、そして相手を追い込んでダメージを与えておいての決め技だっただけに難易度が高く、そうそう出せるものではなかった。 パンチやキックで試合を決めることが多くなり、長い時には2年4ヶ月もの間、真空飛びヒザ蹴りで決まった試合がなかった。

沢村は「格闘家のピークは27歳まで」という考えを持っていた。だが、実際その年齢になってみると、所属している目黒ジムでは600人の選手が所属しており、とても引退を口に出来る状態ではなかった。沢村がいなければ興行もテレビも成り立たない状態だったのである。

「とにかく俺は30歳までは頑張る。だからみんなも早く看板選手になれるよう頑張ってくれ。」

そう言い続けながら、30歳になった時も同じ状況で、キック人気は依然沢村が一人で支えているような状態だったのである。

そして月日は更に流れ、沢村も32歳になった。キックボクシングが誕生して8年が経ったが、状況は変わらない。

「いったい俺はいつまで現役を続ければいいんだ。」

自分がいなくても、このキックボクシングを日本に定着させ、安定した人気をいつまでも、と願う沢村には焦りが出始めた。

生涯最後の敗戦

この頃になると、沢村は全盛期に比べるとスタミナや技の切れ、スピードなど、明らかに落ちてきていると、沢村本人もセコンドも感じるようになっていた。
7月19日、この日沢村は選手生活で最後の敗戦を喫する。前回負けてから、ここまで引き分けをはさみ、54連勝が続いていた。

この日の相手は一階級上のウエルター級のチャンピオン、チューチャイ・ルークパンチャマである。チューチャイは若干20歳であったが来日以来快進撃を続け、日本ウエルター級の上位陣や、更にはヘビー級の斉藤天心をも下していた。

試合は4ラウンド、チューチャイの右ストレートにより沢村はKO負けを喫した。倒れた際に頭を打った沢村は全身を痙攣(けいれん)させていた。リングには物が投げ込まれ、大騒ぎとなった。二年三ヶ月ぶりの敗戦。そしてこれが選手生活で最後の敗戦となる。

全盛期の沢村は、ある程度、パンチにはパンチで応戦し、キックにはキックで応戦し、見せ場を作ってから相手を仕留めるということも出来た。実力差があってこそ出来ることであった。

だが、33歳になると、そのような余裕がだんだんと無くなり、客席から「まだ早い!」という掛け声が飛ぼうが、決められる時には一気に決めてしまうようになった。それが派手な技ではなく、地味な小技であっても「見せる」ことより「勝利」を優先するようになったのだ。

引退に向けて

1976年(昭和51年)2月14日、沢村は「一戦一戦、もうこれが最後だと思ってリングに上がります。」と語った。自分の引退が間近であることを自分なりに悟っている発言であった。

4月10日の後楽園ホールで沢村は、一階級上のウエルター級のチュンポン・ムアンスリンを試合開始35秒でKOする。以前、試合開始のゴングの直後に右フック一発でKOした試合もあったが、この試合は生涯で二番目に早い試合であった。

この時期に来て、沢村は野口社長と二人で話した時、とうとう引退の意思のあることを伝える。これまでスケジュールに関してもファイトマネーに関してもほぼ全ての面で黙って受け入れてきた沢村であったが、引退問題に関しては自分の意見を強行に発言した。

5月22日、後楽園ホールで東洋タイトルマッチに挑む。TBSが放送を開始して9年、放送回数はちょうど400回目となっていた。この日の相手シンハオ・ソールークピタクを3ラウンド、右フックからKO。ライト級では20回目、ミドル級時代から通算すると34回目の東洋タイトルを防衛した。

ファンにとってはいつもの光景であったが、沢村自体がいつもとちょっと違った。試合の終わった後、四つのコーナーを順々にまわっては深々と頭を下げてまわったのである。自分なりの引退間近の挨拶であった。

沢村・蒸発

沢村はこので後楽園ホールで何試合か行って、その後は地方興行に出ることになっていた。最後は鹿児島で試合を行い、大阪へ帰って大阪府立体育館で試合をし、これで今回は一区切り、というスケジュールとなっていた。

7月2日、沢村は大阪府立体育館に出発する前に鶴巻サブマネージャーを呼び止めた。
「ねえ、鶴さん、俺さすがにもう疲れた。今日で辞(や)めるよ。」

鶴巻はびっくりして言葉もなかったが、しばらくして
「ジョーさん(沢村の愛称)が辞めるなら俺も。」と答えた。

沢村はこの日、ダビチャイ・ルットチョンをKOで下した。そしてこの日を境に完全に消息不明となってしまう。

公式戦の通算成績は241戦232勝(228KO)5敗4分け。驚異的な数字である。

この後は全くの行方知れずで誰も連絡を取ることが出来なくなった。野口プロモーションは「怪我を治すための休養期間」と発表していたが、真相を隠すには、行方不明の期間が長過ぎた。
蒸発して数ヶ月も経つと、世間ではいろいろな噂が出始めた。

「野口社長に頭にきたので逃げた」
「頭がおかしくなって富士山麓(さんろく)の精神病院で両手両足を鎖でつながれ、犬の格好をしてご飯を食べている」
「刑務所に入っている」
「死んだ」
「廃人になった」
「裏社会で用心棒になっている」
など、様々な憶測が飛んだ。

引退式

沢村が蒸発して一年三ヶ月の月日が流れた時、ある男が突然、野口のもとを訪ねて来た。

「社長、お久しぶりです。」

そう挨拶をしたその男は、髪型や雰囲気はすっかり変わっていたが、まぎれもなく沢村本人であった。

話したいことはいろいろあったが、野口は再び現れた沢村に対し、やはり時代を築いたスーパースターの引き際として、ファンの前で正式に引退式を行うことを決定する。10月10日、場所は後楽園ホールと決まった。

再び沢村が現れたこと、引退式を行うことになったことなど、多くのスタッフは半信半疑であった。当日の会場でも「本当に来るんだろうか」という雰囲気だったが、その日後楽園ホールに現れたのは間違いなくかつてのキックの帝王、沢村忠であった。

リングに上がり、観客に向かって深々と頭を下げ、マイクを取って別れのメッセージを綴った。「キックボクシングファンの皆さん、長い間本当にありがとうございました。」わずか二分弱のメッセージであったが、その後テンカウントゴングが打ち鳴らされ、静寂な雰囲気の中、沢村の引退式は終了した。

引退後

沢村は引退してから、自動車修理工場を経営している知人に頭を下げ、就職させてもらった。そこで数年間経験を積んでから独立したという。

関係者からは、「あれだけの名声を捨てるのはもったいない。」「引退後もキックの世界にとどまり、後進の育成に当たってくれ」と説得されたが、それらの誘いを丁重に断り、キックの世界から完全に決別し、また新たな人生を一からスタートさせたのだ。

沢村は引退してから一、二度マスコミの取材も受けており、引退から20年以上経って、一度だけテレビに出演したこともある。

取材において、なぜ姿を消したのか、また、キック界から完全に決別したのはどうしてなのか、という問いに対して

「キックの世界にいる時は人一倍練習も積み、最初は27歳くらいが限界と思っていた選手生活も結局34歳まで続けました。僕がいなくなれば、日本キックボクシング協会に登録している2000人の選手が試合出来なくなってしまいますからね。その結果、完全燃焼でした。現役時代は過密日程で満身創痍で、常に眠りも浅かった。それが限界まで戦い抜いてようやくそこから開放されたのです。

僕は昔から武士道的な生き方にあこがれていて、『立つ鳥、後を濁さず』ということは常に考えていました。キックボクシングで自分なりに全てをやり尽くしたことは自分にとって最高の勲章なんですよ。だからこそ、そっとしまっておきたかったし、とても改めて引っ張り出す気にはなれなかったんです。

思い残すことのないキックの世界からスッパリ身を引き、新しい人生を一からスタートさせようと思ったんです。」
と語った。

沢村がいなくなってからは、キックボクシング中継は段々と視聴率が下がり、ついには打ち切りとなってしまう。まさに第一次キックボクシングブームは沢村と共に始まり、沢村の引退と共に幕を閉じたのである。


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