トップ    前項    次項
                新米日本語教師の日記(2009年11月2日〜)hh2010年

  《6月17日(木)》
  昨日おとといと思い切って安徽省の省都「合肥」まで行ってきた。泗洪からバスで5時間とチョット(279km) バス1本で行けるのがいい。7時半発のバスに乗る。12時半過ぎに到着。ほとんど高速を通らないで 安徽省の農村を一路「合肥」へ、道路は麦打ちの光景がそこかしこに、途中途中では収穫した麦 の集積場などを見ることができた。また、ワイ河近辺になると田植えが終わった水田もちらほら見られるようになった。 やはりワイ河が一つの境界線であろうか。
  駅前に標準部屋100元のホテルがあったので飛び込む、しかしパスポートを出すと「外国人はダメです」と宿泊を 断られる。その後の2件ともに断られた。やむを得ず高級そうなホテルへ飛び込むと1泊310元 ときた、「高い!」他を探すことに、かって鄭州で泊まったことのあるチェーン店「如家快捷酒店」 へ外国人はOKか?と聞く、OKで1泊179元とのこと、やっと泊まる所を決めることができホットする。
  合肥市は安徽省のど真ん中、長江とワイ河の間にある都市で広さ6900ku、人口470万、かっては 蘆州と呼ばれ、秦の時代に合肥県が設置されたそうである。合肥は全国でも重要な科学教育基地で合肥の科学技術大学は中国のトップクラスである。
  訪れるたところは、李鴻章故居、包公祠、逍遥津公園と繁華街。李鴻章は清末期の重鎮で日清戦争 後下関春帆楼で開かれた日清講和会議の中国全権大使である。清の末期大変な時代の舵取りを託された政治家である。
  包公祠は宋時代の官吏(県知事)包拯を祭った建物で、先月訪れた開封にもあった。包拯は地方官転出を 希望し、各地の知事を職したようで、清廉な政治家として庶民にとても信頼されたようです。そんなわけで河南省 を中心として各地に包公祠があるらしい。もともと包拯は合肥出身の人であったので、ここ合肥の包公祠は大切に されてきたのだろう。街の中心を運河が囲むように流れておりその傍らにAAAA級の旅遊景区として 保存されていました。しっとりとしたなかなか良いところでした。行ったところ全て繁華街の近くで、バス、タクシー など全く利用しませんでした。帰りは、13時50分発のバスに乗り泗洪に着いたのは19時前でした。
  今日から3日間中考(高校入試)が始まった。中学三年生にとっては卒業試験でもある。科目は語文、数学、英語(日本語)、 化学、物理、政治・歴史の6科目、初日は語文と化学、9時に開始のベルが鳴り渡った。

  《6月19日(土)》
  中考最終日、午後4時40分、政治・歴史科目終了のベルが心なしかむなしく鳴り響いた。これで 中学3年生は卒業である。窓から見ていると、3年生をそれぞれの里へ送るバスが数台また布団を運ぶトラック が1台来ている。バスに生徒が群がっている。そこへ休みを終えた中1・2と高1・2が戻って来たようで、 校門の前はとても混雑した状況になってきた。部屋から出て様子を見に行く。校門では専門学校の パンフレットを配る人も何人か。試験中の静寂がうそのように。
  夕食後、明かりの消えた教室が目立つようになって来た中、張さん黄さんの教室へ行ってみた。6時20分から9時まで夜の自習時間である。明日日曜日に 戻ってくるのかと思っていたが違った。・・・すると明日日曜日は?・・・日曜日は木曜日の課程を適用 するそうである。こりゃ、準備を早めなければ!聞くと27日(日)から期末試験だそうで、それが終われば 約2ヶ月の夏休みになるのだろう。まずは、明日からの一週間をこなすことだ。





  逍遥津公園、包公祠、李鴻章故居と清風閣

  包公園の清風閣より市内を望む

  帰郷へのひと時