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                新米日本語教師の日記(2009年11月2日〜)hh2010年


  《10月1日(金)》
  国慶節の休みが3日から七日そして5日とめまぐるしく変わった。30日の朝、張さんから 金土日の3日間と連絡が入った。ところが午後2時ごろ黄さんから3日から7日に伸びたと 連絡が入る。そして今日、張さんから私の場合は5日とのこと。
  どうしてこのように変わったと言うと、当初学校は3日間と生徒に伝えたようです。しかし ある生徒が市教育局へ訴えたらしい「国慶節なのに3日しか休みがない」と、それで 当局から学校へ指導が入ったようで、7日になった。しかし中学3年生は3日間の ままで、月火はテストを行なうそうである。そんな訳で私は5日間となった。
  今日は黄さんと彼の彼女と3人で宿遷の項羽の故郷へ行ってきた。宿遷は項羽の生地 である。 スーホンから宿遷へのバスは10分おきに出ておりキップは流水班と書かれ発車時刻や 座席はフリーである。隣に女の子が座ってきた。わざわざ私の隣にという感じであった。 彼女が軍事訓練の記念写真を取り出して見ていた。それが話し合うきっかけとなった。 彼女は今年、興洪中学を卒業した子で外国語は日本語を選択していた。私は教えたことは ないが、彼女は私を知っていた。そんな訳で片言の日本語で話しかけてきた。彼女は現在 南京のある技術学院に進学しており今日は宿遷の実家へ帰省するところであった。いずれにしても うれしい。こんな仕事をしているとどこで誰と出会うか分からないものだ。2週間の 軍事訓練はかなりきつかったそうである。

  《10月3日(日)》
  昨日今日とベン・ブー(beng bu 虫編に豊と土編に阜、eはエとオの中間の発音)まで足を 伸ばしてみた。ベン・ブーは隣安徽省の西北部の街、上海〜北京への鉄道がとおり、街の 中を准(ほんとはさんずい)河(ワイガ)が西から東に貫いており交通の要衝である。ベン・ブー という発音が面白いし、スーホンから直行のバスが出ているので前から一度行ってみたいと 思っていた(バスで2時間半)。歴史上では4000年前の禹大治水工事ごろから登場する街である。
  行ったところは「革命歴史記念塔」と「湯和墓」、そして繁華街に一泊した。湯(タン)氏は 元末期から明初期にかけての武将、朱元璋の片腕として活躍したようである。また倭寇に 対して果敢に抗した英傑としてあがめられている。600年の時を経て1973年発見された ようである。
  2日行くときは小雨が時々ぱらつく空模様であった。安徽省の農村地帯を貫く道路の両側には 盛り上げた黒っぽい藁のような山が幾つもあった。何だろうと思い思い過ぎて行った。3日戻りの 日は抜けるような青空が広がった。道路の両側には上の写真のような光景がどこまでも続いた。 キップ売りのおばさんに、あれは何かと聞く。大豆(ダ・ドウ)と返ってきた。大豆 の脱穀作業である。道路に広げ乾燥させ、打ってほりあげて穀物だけにしていく。6月の麦の 収穫と同じような光景がどこまでもどこまでもどこまでも続いていた。   

  毛主席の書(項王故里)

  湯和墓