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                新米日本語教師の日記(2009年11月2日〜)hh2010年

  《11月19日(金)》
  昨年度はなかったのだが参観日が開催された。中国語で「家長会(ジャー・ジャン・ホイ)」。 参観日といっても日本と違って授業風景の参観はなく、担任の先生の学校紹介や中間テストの成績の報告が中心であった。その 家長会に飛び入りで参加することにした。昨日夕方急遽決めたのである。内容は父兄を前に 私が簡単な挨拶を日本語で行い、生徒に中国語で翻訳させることとした。
  2年1・2・4組で行なったが、終わってみれば「ああすれば良かった、こうすれば良かった。」 との思いはあるが。まあ急遽はじめて行なったこと。次回はもっと内容を考えよう。なにしろ 日本語教育を特色としている学校だから。
  4組、黄先生は準備周到であった。パワーポイントを使って学校紹介や成績分析を報告し た後、生徒から父兄への感謝のレターや父兄から子供たちへのレター読み上げなどが順次 行なわれていった。家長会終了後、生徒は父兄とともに家に帰り、日曜日18時 までお休みになりました。
  生徒のいなくなった学校はひっそりと静まり返っています。学生のいない学校には居たくない 明日・明後日と又どこかをうろつこう。

  《11月21日(日)》
  20日(土),21日(日)と1泊で「塩城」に行ってきた。ほんとうは「馬鞍山」へ行こう と思い昨日20日朝7時前に長距離バス駅に行ったのだが、キップを買う段になって、 馬鞍山へのバスは午後1時だという、掲示されている時刻表だと7時20分となっているのに。 そんな訳で急遽「塩城(イエン・チャン)」に切り替えた。塩城は江蘇省東部の中核都市である。 7時30分発、塩城到着は11時半であった。着いた日はホテル(如家快捷飯店)をとり繁華街 をうろつきセーターを買う。
  今日は「新四軍紀念館(N4A)」に行ってみた。第四軍は日中戦争開始当初の1937年10月ごろ 湘(湖南省)・?(江西省)・?(もんがまえに虫;福建省)・粤(広東省)・浙(浙江省)・鄂(湖北省)・豫(河南省)・ 皖(安徽省)8省の紅軍とその遊軍から編成された。1940年末、国民党は第二次 反共政策を発動、翌1月初旬第四軍は蒋介石率いる国民党軍8万に包囲され9千の部隊は2千にまで減り壊滅的な打撃をこうむった。 これを「皖南事変」という。そこで毛沢東率いる中共中央軍は1月下旬、新四軍(N4A)を塩城で 立ち上げたのであった。中心人物は劉少奇。以降中国共産党の指導の下、蘇(江蘇省) を中心に日本軍掃討作戦と国民党軍との戦いの中核部隊となるのである。このように紀念館は第四軍の生い立ちから1947年役目の終了までが解説されていた。
  新四軍紀念館は無料であった。ただ入場時パスポート(身分証明書)を提示、私の来場が記録されました。 塩城は大都市(大城市)、一番賑やかな通りは「建軍路」、済寧と違った新しさを感じた街であった。 馬鞍山へは今度、南京経由で考えてみよう。

  《11月22日(月)》
  下のものが固まってきた。いろいろ推測するに、お茶をよく飲み始めてから固まってきたように思う。寒くなったせいで 暖かいお茶が恋しい季節になったのが要因か?先日、曲阜で100グラム118元のお茶「蘭貴人」を買った。これが甘口でおいしいので、 今はよく飲んでいる。

  家長会1

  家長会2

  国民革命軍新編第四軍重建軍部紀念館